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5/24/2010
日本を再び輝ける国にするために!~なんで日本は世界に注目される国から夢のない国に転落したか?
今日本は非常に厳しい環境になっています。
バブルのころまでは、日本の将来は非常に明るく感じ、世界一豊かで世界の先端を行く国だと思っていました。
それが今や毎年賃金は下がり、少子高齢化で日本の人口は減り、社会保障費の負担は年々増加して行くなか、国の債務も莫大な大きさに膨れ上がっているので増税も避けられない状況にあり、だれもが閉塞感にとらわれて夢をなくしています。
たった十数年のうちにどうしてこんなに正反対な状況になってしまったのでしょうか?
あなたは今の日本が今のままでいいと思いますか?
もちろんいいわけないですよね。やはり国民が将来に夢を持ち、自
信を持って世界に誇れる国であってほしいというのは私たち日本人
共通の望みのはずですね。
では、どうしたら日本がまた輝きを取り戻すことができるのか?
残念ながら今のマスコミを見ていると、鳩山政権にけちをつけることだけに忙しく、なぜ日本がこのような状況に陥ってしまったのか、そして何をすればこの閉塞状況から抜け出せるのかなどの建設的な主張を見ることはできません。
マスコミが考えないのであれば、私たち国民がしっかり考えて日本の将来を明るくする方法を見つけるべきでしょう。だって自分たちの将来であり、自分たちの子供や孫たちの未来であるのですから。
高度成長期の日本は、今の中国のように毎年10%近い経済成長を達成していました。今は、ゼロ成長、悪くすればマイナス成長です。
何が違っているのでしょう。
高度成長期と今を比べてみれば何か見えてくるかもしれません。
高度成長期 現在
人口構造 若い労働力豊富なピラミッド 少若年労働力多高齢者
賃金水準 安い労働力 世界最高水準(下降開始)
インフラ これから整備必要 過剰空港・港湾
国民 夢にあふれ勤勉 夢がなく学習意欲低い
貧しい 総中流→格差社会
世界状況 個々の国が独立して競争 グローバル化・
国境/国籍が希薄化
通信手段 電話・テレックス E-mail、ビデオ会議
言語 各国ばらばら 英語が共通語
こうやって比較してみると同じ国とは思えないほど違っているのがわかります。でも、日本の国の運営の仕方は、国、都道府県、市町村などの行政組織構造から外交、教育などの政策に到るまで、あまり変わっていないと言えます。
でもここに簡単に列記しただけでも、このように大きく環境が変わってしまったのですから、国の仕組みも大きく変えていかないと時代に合わなくなってしまうというのは、誰が考えてもわかると思います。
高度成長期は、みんな必死に勉強し、働き、主に輸出で稼いでそのお金で公共投資をしてインフラを整備してきました。
この時代は、オリンピックや万博を契機に、新幹線を作り、高速道路を作り、上下水道を整備してきました。
そして、その後時代はどんどん変わっていっても、昨年の自民党政権が終わるまでは、基本的に同じように公共投資を行ってきました。
ここで少し考えてみると、高度成長期の公共投資は非常に効果的な投資でした。例えば、新幹線ができるまでは、東京大阪間は特急に乗って8時間以上もかけて行き来していました。そんなにかかっちゃ絶対に日帰りなんかはできません。
また、東名、名神高速ができるまでは、車で東京から大阪まで行くのは一大旅行です。私も子供の頃、東京から福島の親戚の家まで車で連れて行ってもらったことがあるのですが、すごく時間がかかり、福島までの間に何件もの自動車事故を目撃しと大変な行程で、子供心にこんな事はしょっちゅうはできないなあと思いました。
そんな時代に新幹線や高速道路ができたらその効果は劇的です。
当然、その後に東京ー大阪間の人の移動や貨物の異動などは激増したでしょう。したがって、その投資を行うことで発生する経済効果は、何倍どころか何百倍、何千倍にもなって帰ってきたことでしょう。
つまりまだインフラが整備されていない時期に、大きな変革を起こす公共投資はすればするほど、経済が発展するように働いたと言えます。
今の中国はまさにそのような状況にあると言えます。
ところが、日本の政府及び官僚組織、社会は、その時代に公共投資で潤う構造になってしまったため、もう、ある程度インフラが整備され公共投資も経済効果が期待できない時代になってからも、公共投資をやめることができなくなってしまいました。
公共投資をしなければ、土木建設会社が生きていけなくなる。そうするとそれを票田としている自民党も生きていけないという循環で、日本国中、ダムを作り、空港を作り、漁港を作り、それらを管理する特殊法人を作り、役人がその特殊法人に天下りをしという。政・官・業の強固な共同体構造が出来上がってしまいました。
東名高速は建設したら多くの人が利用するから、その経済効果が莫大な物になりますが、同じ高速道路でも、いなかで交通量が東名の何万分の一しかないとしたら経済効果は、建設費だけのものしかありません。
このような投資を自民党は長年にわたり行ってきて、日本の財政を国債の山にしてしまいました。
したがって、、本来であれば(きちんと調べていないので年代は適当ですが)1980年代頃から、お金の使い方を経済効果の薄い公共投資から、教育や育児支援などの人に対する投資にシフトするべきだったのです。
しかし、順調に成長してきた日本経済も世界に対する存在感が大きくなりすぎた(とアメリカが思った)1980年代中頃から、アメリカによって大きく影響を受けるようになっていきました。
1980年代前半のアメリカはインフレを抑制するためレーガン政権は、厳しい金融引き締めを行い金利は2桁に達し、高い金利に引き付けられて世界のマネーがアメリカに集中した結果、ドル高、(アメリカの)輸出減、輸入増を招き莫大な貿易赤字が計上され、財政赤字も累積して行きました。(双子の赤字)
そこで、インフレが沈静化した時、貿易赤字が顕著であった相手の日本をターゲットとし、先進各国が協調して円高ドル安に誘導することを決定したのがいわゆる「プラザ合意」です。
この結果、プラザ合意の翌日には1日で20円も円高になり、1年で1$235円から150円と急激な円高になりました。
今でも円高になると自動車や電機などのメーカーの輸出が厳しくなるので円安がいいなどと新聞で言われていますが、当時は1年で40%もの円高になったわけですから、「円高不況」が起きることが懸念され、日本では長期にわたり低金利政策が採用されました。
このことにより、国内では安い金利で調達した資金が不動産や株式に流れ込み、バブル景気につながるとともに、海外資産に対しては、数年でドルに対して倍の価値になった円で買えば、海外資産の半額セールと同じ効果を生み、三菱地所がロックフェラーセンタービルを買ったように米国資産を買い漁ることも起きたわけです。
そしてそのような円高の中にあっても、日本企業は合理化や海外への工場移転などで高い競争力を維持し、アメリカの対日赤字は膨らむ一方だったため、アメリカは、段々と強硬手段をとるようになりました。
それが「日米構造協議」といわれるものです。
ここで日米構造協議について、ウィキペディアより引用いたします。
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日米貿易摩擦解消のため、1989年7月14日の日米首脳会談の席上、
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に提案し、
実現したのが「日米構造協議」であった。プラザ合意以降の円高
ドル安の中にあってもアメリカの対日赤字が膨らむ要因は、日本の
市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の
改造と市場の開放を迫る内容となっている。(1990年1月31日にベル
ン行われた非公式会議で判明したアメリカの日本に対する要求は、
優に200項目を超える膨大な量で構成されている。)
最終報告の中でアメリカは、「(日本は)輸出につながる産業分野
への投資より、公共分野に投資するほうが賢明」であるとし、日本
に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求した。海部内閣は
これに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を
策定した。しかしその後、アメリカ側から「日本の対外黒字の増加
を考えれば、公共投資の目標の上積みが必要」との要望があったた
め、1994年に村山内閣で計画が見直され、社会資本整備費としてさ
らに200兆円を積み増しし、総投資額は630兆円を計上している。
この投資行動が現在の日本の財政難の遠因であるとの指摘がある。
このアメリカの要請の背後には世界に流出する多額のジャパン・
マネーがドルの影響力を希薄化させていることを懸念し、ジャパ
ン・マネーを日本国内に閉じ込める狙いがあった。
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ここで、先ほど指摘した1980年代には公共投資から人への投資にするべきだったのが、その後もますます公共投資を増大させていったのが、政・管・業の既得権益の問題ばかりでなく、アメリカからの圧力だったことがわかります。
現在の巨額な国債の山は、公共投資から人への投資へ転換するべき時に、アメリカの圧力に屈してそのまま受け入れ、拡大すらしたことにより築かれたことを知り反省しなければ、日本の未来を開くことはできません。
今から思えばこれが日本の絶頂期でした。
でもここで一つ考えて欲しいのは、新聞は円高になると不景気になるとすぐにいいますが、実際にはこの時には円の価値が上がって海外資産を買ったり、海外旅行に行ったり、ブランド品を買いあさったりとかなりいい思いができたということです。
実際、またあとで触れますが、円高は日本経済にとって悪いことばかりではないのです。
さて、この世を謳歌した日本の繁栄も、1990年3月に大蔵省銀行局長土田正顕から「土地関連融資の抑制について」(総量規制)が通達され、不動産に資金が回らなくなり、また日銀が行った急激な金融引き締めもあり、バブルが急激に冷やされていきました。
日経平均株価については、1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、1990年10月1日には一時20,000円割れとわずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落しました。
ただ、当時は株や土地が暴落して打撃を受けた企業はありましたが、一般庶民は感覚的にはあまり大きな打撃を受けていなかったのではないでしょうか?
実際1993年に一人当たりのGDPが世界第3位になるまで、一人当たりで伸び続けていたのですから。
ここまでは、まだ日本は日本らしく、一億総中流と言われた格差の少ない社会でした。
ところが1993年を境にして、現在の閉塞感漂う、夢のない社会へと方向転換を致しました。
1993年から何が始まったのか?
いわゆる「年次改革要望書」の交換が1993年(平成5年)7月の宮澤喜一首相とビル・クリントン米大統領との会談で決まったのです。
これは、日本政府と米国政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書で、毎年日米両政府間で交換される。
建前上は両国の経済発展のためとされていますが、この「年次改革要望書」を研究し、「拒否できない日本」にまとめた関岡英之によると「アメリカによる日本への年次改革要望書の性格は、アメリカの国益の追求という点で一貫しており、その中には日本の国益に反するものも多く含まれている」というものでした。
そしてこの「年次改革要望書」によりアメリカからの要望を実施することで出来上がったのが、一億総中流といわれた国から、労働力の3人に一人以上が非正規雇用者になってしまった格差社会日本なのでした。
さて具体的にどのような要望がされ、どのように日本が変わってきたのか、これはまた来週取り上げたいと思います。
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